ワヤン・クリッ(Wayang Kulit=影絵芝居)



 プンゴセカン村で、今日からプセ寺院オダラン(寺院祭礼)が始まった。寺院前の広場に 竹と椰子の葉で作られた高床の小屋が建った。ワヤン・クリッ(影絵芝居)が上演される仮設小屋だ。
 ワヤンとは影絵の人形のこと。クリッは皮で、ワヤンには水牛の皮が用いられる。なめした皮は、透かし彫りにカットされ彩色がほどこされる。それは見事な芸術品だ。
 ワヤンにはワヤン・クリッ以外に、西ジャワの、木製の人形を使った[ワヤン・ゴレッ]や中部ジャワの薄い木からできた[ワヤン・クリティック]、そして、ロンボク島の[ワヤン・ササック]、中部ジャワとバリに人間が演じる古典仮面劇[ワヤン・ウォン]などがある。バリには、スクリーンを張らずに演ずるワヤン・クリッがある。それは、影絵にならない陽のある時間帯に行われ[注:ワヤン・ルマ]と呼ばれる。
 ワヤンは、古くからインドネシアの各地で親しまれてきた。現在では、ジョグジャカルタとソロ、そしてバリが有名だ。ジョクジャカルタやソロのワヤン・クリッは、影絵を見るだけではなく舞台裏から演者を鑑賞することも多い。スクリーンも幅広く、大編成のガムランにドラムも加わって豪華絢爛だ。バリと違って、宗教性のない娯楽である。
 バリにワヤン・クリッが伝わったのは、マジャパイト王朝の15世紀頃、だと言われている。(ワヤンについて詳しくは、松本亮氏の著書が多数出版されてますので、それを参照してください。ここでは、バリでの体験を紹介します)
 バリのワヤン・クリッは、誕生日儀礼(オトナン)、削歯儀礼、婚姻儀礼、葬儀礼、オダラン(寺院祭礼)などの宗教儀式にかかせない奉納芸能だ。また、儀式の一部でもある。こんなところからワヤンの人形遣い師は、僧侶やバリアンと同様に宗教的な専門家とされている。
 小屋の前に立っているわたしに、村人らしき人が「今夜のダラン(dalang)はバポ・シジョーだ」と教えてくれた。きっとわたしが、ワヤン・クリッに興味があると思ったのだろう。
 ワヤン・クリッの人形遣い師のことをダランと言う。ダランは、たったひとりでいくつもの人形を操り、あらゆる登場人物を声色で演じ分けて物語を進めていく。時には、1回の上演に100体もの人形が使われることもある。
 ダランは、古代ジャワ語であるカウィ語の知識を持ち、バリ語のあらゆる階級の言語に通じていなければならない。(レゴンのなどの、物語のある舞踊のあらすじを吟唱する人もダランと呼ばれる)
 バポ・シジョー(本名はI Made Sija、1933生)はトペン(仮面)舞踊の踊り手としても有名だが、ワヤン・クリッも評判が高い。今夜は、多勢の観衆が集まることだろう。プンゴセカン村は、私の滞在している村だ。夜になったら、お祈りをしたあとワヤン・クリッを見に来よう。
 夜9時に、わたしは正装に身を包んでプセ寺院に出向いた。昼間オープンだった小屋には、映画のスクリーンのような大きな白い布が道に面して張られてあった。わたしは小屋の裏にまわって覗いた。
 小屋の中は、4メーター四方ほどの広さだった。スクリーンの真下に、太いバナナの幹が横たわっている。これがワヤンの人形を刺して立てるところだ。人形は1本の棒で支えられ、腕や足の関節の部分の棒で動作を演じる。バナナの幹に立てたまま操ることもある。
 スクリーン中央は、ダランが座るところだ。今夜はバポ・シジョーが座る。その上部には、木製の台に小さな椰子油ランプがぶら下がっている。ちょうど顔が隠れる高さだ。これではスクリーンの中央を、ダランは見ることができないだろう。見なくても演じられるほど熟練を必要とするのだろう。
 ダランの座る左手に、薄いが大きな四角い箱がある。この箱の中に、たくさんのワヤン・クリッが入っているのだ。箱は、時に楽器となる。開演時にダランは、左手にチェスのクイーンのような形をした木片(Japala)を持ち、箱を打ち鳴らす。ワヤンを操る時には、右足の指に足用木片を挟んで器用に打ち鳴らす。
 ダランの座るうしろには、ガムランが並んでいる。グンデル・ワヤンという青銅製鍵盤楽器のガムランだ。グンデル・ワヤンはバリの伝統楽器のひとつで、大小一対づつの計4台の編成で行われる。マハバラータは4台のグンデルで、ラーマヤナではクンダン、チェンチェン、クンプルのパーカッションが加わる。
 お祈りを終えて、再び小屋の裏手に廻ると、演者と思われる一団がぞろぞろと現れた。バポ・シジョーもいる。全員が小屋に上った。
 バポ・シジョーがスクリーンの後ろに腰を下ろした。バポ・シジョーの左右に、ワヤン人形を受け渡す手伝いをする男性が座った。グンデル・ワヤンの前にも男たちが座った。
 バポ・シジョーが、供物を前に置いてお祈りを始めた。今夜の奉納が無事に終わることを、神に願っているのだ。祈り終わると、箱の蓋を開けた。ワヤンをひとつひとつ丁寧に見ながら左右に置いていく。壊れているところはないかと、確認しているのだ。そして、今夜の演目を考えながら右には善者を、左には悪者をと振り分けているのだ。
 コピが運ばれてきた。ガムラン奏者たちが、雑談しながらコピをすすりだした。バポ・シジョーはシリーの準備を始めた。シリーは、新鮮なキンマ(コショウ科)の一葉に少量の石灰とガンビル(葉と枝のエキス)を擦りつけ、ビンロウヤシの実の中にあるタネを薄切りしたものと一緒に噛む、インドネシア各地にある昔ながらの嗜好品だ。
 バポ・シジョーは、シリーを口に含むと再びワヤンを並べ始めた。この間にわたしもタバコでも一服しようと、スクリーンの眼の前にあるワルンの椅子に腰を落とした。ここで見ていればいつ始まっても大丈夫だ。
   村人がスクリーン前の地面に、サンダルを座布団変わりにしてパラパラと座り込みはじめた。
 スクリーンが、燃えるようなオレンジ色に浮き上がった。椰子油ランプに火が灯されたのだ。スクリーンに映し出すための照明には椰子油が燃料として使われている。色合いや暗さ加減が、古くからの伝統芸能の雰囲気をかもし出している。
 炎の揺らめきが、心をリラックスさせる。
 優しいオレンジ色の炎が、スクリーンに不規則な模様を写し出す。
 先の尖った大きなうちわのようなグヌンガン(カヨナン)が、蝶の舞うように妖しく揺れる。グヌンガンはワヤンの開演には必ず用いられる。宇宙を象徴していると言われる。
 グンデルの音色が、音の玉を転がしたように繊細で柔らか響く。
 いよいよ、バポ・シジョーのワヤン・クリッの開演だ。
 ワヤン・クリッは、こんな風に夜遅くなってから始まる。
 いつの間にか広場は、正装の村人たちで埋まっていた。テレビが普及した今でも、バリ人はワヤン・クリッが好きなのだ。普段ならさっさと寝てしまうバリ人もワヤン・クリッのある夜は、夜通しスクリーンに映る影に夢中になる。子供たちは、そのうち、お父さんの膝の上で寝てしまうだろう。わたしは、村人たちのうしろに腰を下ろした。目線は少し見上げる感じになる。
 箱を打ち鳴らす激しい音と、ダランのノドを潰したようなだみ声が響いた。物語のはじまりだ。
 演目は、インドの古代叙事詩マハバラタのパンダワ物語だ。
 揺らめく椰子油の明かりを受けて、透かし彫りのワヤンがオレンジ色のスクリーンに影を映し出された。
 ワヤン・クリッの演目は、マハバラタやラマヤナなどの古典物語が代表的で、ほかには、ワヤン・チャロナラン、登場人物をすべて動物に置き換えたワヤン・タントリがある。
 物語は、善と悪の戦いであるが、最後には善が勝利をおさめるという道徳的、宗教的なテーマである。また、儀式性、宗教性の強い芸能で、基準からそれた方向へ演じることができない。ダランは芸術家としてのみでなく、哲学や宗教、モラルなどの幅広い知識が必要とされる。
 上演は3〜5時間と長い。この長さに日本人だったら退屈しそうなイメージがある。
 グンデルの演奏が、場面に合わせて早くなったり、ゆっくりになったりする。
 観衆は、夜の涼風を楽しみながら、足を組んだり投げ出したり、ピーナッツやお菓子などをほおばったり、タバコをふかしたりと、おもいおもいの格好で鑑賞している。わたしは村人に混じって、雰囲気を味わった。
 突然、観衆が爆笑した。きっと最近のニュースを取り上げて、アドリブでジョークを言ったのだろう。わたしは言葉が理解できずに、苦笑いする。
 バポ・シジョーのワヤンを操る姿を見たくて、小屋の裏手にまわってみた。
 ワヤンが右から左に移動し、また左から右へと移動する。ワヤンがスクリーンから離れると影は大きくなり、近づくと影がはっきりと映し出される。こうしてサイズや陰影の変化を作っているのだ。 素早く1回転させる技を使ったり、いくつもを鷲掴みにするとポトポトと落としていったり、両手に持って演じていた人形を、いきなりうしろに投げる。左右でサポートしているおじさんたちは、拾うのにおおわらわだ。
 バポのワヤン・クリッは、とてもとても70歳とは思えないほどエネルギッシュだった。
 わたしの腕時計は深夜0時を指しているが、ワヤン・クリッはおおいに盛り上がっている。「さあ、そろそろ寝ようか」うしろ髪を引かれながら、わたしは帰途についた。

  注:ワヤン・ルマ
 誕生日儀礼(オトナン)、削歯儀礼、婚姻儀礼、葬儀礼、オダラン(寺院祭礼)などで、神にのみ奉げる神聖なものとして演じられる。ワヤン・クリッのように、影を映し出すスクリーンは使わない。2メートル弱のバナナの幹に、左右1本づつの枝を立て、それに1本の白い紐を結んだものがスクリーンの代わりとなる。
 枝には、超自然力、超魔力のあると言われているダダップ(Dadap)の木が使われる。ダダップの枝は、水をめったにやらなくても、葉をつける生命力の強い木だ。その2本の枝を結ぶ白い紐は、天界と人間界を結びつける象徴と言われる。これは結婚儀礼でも見られる。

※アパ?より
 ワヤン・クリッは、オカ・カルティニ(日、水)とクルタ・アコモデーション(火、土)の2箇所で定期公演されています。日程が変更されることもありますので、事前にアパ?で御確認下さい。夜8時から、1時間以内の短縮版(チケット5万ルピア)で上演されます。裏に回って演者を見ることもでき、充分に雰囲気を味わうことができます。
 でも、やはりオダランで鑑賞するほうが、バリを満喫できることは間違いまりません。オダランでは、かなりの確立でワヤン・クリッが上演されます。開演時間は、夜9〜10時に始まり深夜2〜3時まで続くことが多いです。来バリの際には、オダラン情報をチェックして、出掛けてみてください。ワヤン・クリッの有無は、アパ?に確認してください。できればチケットをアパ?で入手してもらえれば嬉しいです。



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