「神々に捧げる踊り」

第二章 その二:バトゥ・ガイン寺院



 「わたしの親族の寺院で踊りませんが?」
 バンリに住む友人、ワヤン・バンリから奉納舞踊の誘いの連絡がはいった。
 「ぜひ、踊らせて欲しい」
 わたしは、何も躊躇せずこちらからお願いした。
 ワヤン・バンリは、わたしが踊りを習っていて、機会があればオダランの奉納舞踊で踊りたがっていることを知っていて誘ってくれたのだ。
 バンリは、わたしの滞在しているギャニヤール県の東隣でクルンクン県とに挟まれた、バリでただ一つ海に面していない県だ。不思議パワーの強い土地柄と聞いている。そんなことから、バリアンと呼ばれる呪術師が多い。
 おかしな行動をする人に向かってバリ人は「バンリに、つれて行くぞ」と含み笑いを浮かべてたしなめる。理由は、バリで唯一の精神病院があるからだとわかって笑ってしまった。心の治療に、土地のパワーにも一役かってもらおうというわけだ。
 バリでは同じヒンドゥー教を信仰していても、村々によって微妙に習慣が違うそうだ。バリ人に宗教儀礼や慣習について訊ねると「わたしの村では、こうです」と答える。いかに、村ごとによて異なるかを物語る。確かに、ウブドと隣り村のプリアタンとでは違うことがある。
 今回、奉納舞踊に誘われたのはバンリ県だ。習慣が違うと考えられる村へ、インドネシア語もまともに話せず、ましてや、バリ語のまったくできないわたしが独りで乗りこんで踊ることが少し心細くなってきた。
 そこでわたしは、コンピアンに一緒に行ってもらうことを思いついた。失礼な振る舞いをしてしまうかもしれない場面で、きっとコンピアンに助けられるだろう。
 さっそく、お願いに行くと。
 「クナパ、ティダ、マウ(嫌なわけがないだろう)、喜んで行くよ」と、嬉しい返事をしてくれた。
 これで安心して踊りに専念できる。そして、無事に奉納することができるだろう。

                   ※

 ワヤンの家は、県庁所在地であるバンリ市にある。
 バンリ市には、4年前に1週間ほど滞在したことがある。
 訪れる旅行者が少ないのか、市内には宿泊施設が5件しかなかった。
 1件は王宮内のホーム・ステイ。1件は小さなホテル。残りの3件はロスメン(商人宿)だった。ちなみにウブドには、廉価なロスメンから5つ星の高級ホテルまで幅広く、数も100軒以上はある。
 まずは、王宮に泊まってみようと訪ねてみた。
 ウブドやギャニアールの王宮が立派なのか、バンリ王宮はかなり老朽化が目立ちうらぶれていた。過去の怨念が彷徨っていそうな宮内を横切り案内してもらった部屋は、昼間だというのに不気味な寒さを感じた。こんなところに泊まったら、夜な夜な得たいの知れないものに悩まされそうで、そうそうに退散した。
 結局、ロスメンでもっとも清潔なところを選んで泊まることにした。
 5件の宿は市の中心に集中しているので、バイクで廻ると、あっという間だった。
 着替えしか入っていない小さなバッグをベッドに放り投げ、わたしも横になった。ウブドからバンリ市まではバイクで40分ほどだったが、土地かんのないはじめての道なので、気疲れしているようだ。
 少し休むと元気が取り戻せた。
 バンリ1日目の今日は、市の観光名所にもなっているクヘン寺院を見学することにした。
 小さなバッグの中からカマンとスレンダンを取り出し、着替えることにした。土地に溶け込むには、バリ人の普段着ともいえるこのスタイルが1番だ。この格好なら寺院にも入ることができる。
 クヘン寺院は、市を一望できる高台に建っていた。
 数10段はある長い階段を上って境内に入った。ここはジャボ(jaba-外)と呼ばれる境内だ。
 寺院の境内は通常、奥の境内(jeroan)、内の境内(jaba tengah)、外の境内(jaba)の3つに分かれている。この寺院の境内は奥へ行くほど高くなっていて、それぞれの境内は長い階段でつながれていた。わたしは、祭壇のある奥の境内へと歩を進めた。
 奥の境内では、祭壇の修復工事がおこなわれていた。
中央にひときわ立派な、11重の屋根を持つ祭壇がある。祭壇の屋根は重厚感あるジャゴー椰子の黒い繊維で葺かれ、階段の手摺りには石彫の竜が見事に施されている。煌びやかに彩色された扉は両側に開かれ、内にはご神体と思われる彫像が奉納されていた。この祭壇の修復はすでに終わっているようだ。
 わたしは、この立派な祭壇でお祈りがしたくなった。
 近くで工事に携わっていた村人に、両手を額の前で合わせるお祈りジェスチャーを示した。村人は「どうぞ」と言うようにうなずいた。心ばかしの浄財を祭壇の賽銭箱に納め、供えられた色とりどりの花の入った小さな籠をひとつ手にして地べたにあぐらを組んだ。
 広々とした境内でお祈りするのは、わたし独りだ。
 涼しい心地良い風が、わたしを包みこんだ。
 お祈りは、心を癒してくれる。
 用意されている聖水を、独りでいただく。
 村人が工事の手を休めて、遠くから微笑んでいる。お祈りする姿を見ていたようだ。わたしは、胸の前で両手を合わせて、お祈りさせてもらったお礼を伝えた。
 2番目(内)の境内に、下りていく。
 1年中、陽の差しこむことがないだろうと思われるほど階段には苔がむしている。見あげると、緑が幾重にも重なり強い太陽の光を遮っていた。ビンギンの巨樹だ。
 ブンギンは寺院や王宮の近くには必ずあり、村の中心を示す目印としての役割を果たしている。歴史的には樹霊信仰がすでにあり、のちに伝来したヒンドゥー教の寺院や王宮がブンギンの近くに建ったと考えられる。
 クヘン寺院のブンギンは、樹齢600年をゆうに越えている。胴まわり20メートルはあるだろう。気根は永い年月をかけて木に成長し、束ねられた林のようになっている。
 幹の上に、樹上ロッジのような小屋がのっている。バリ古来の通信手段である、クルクルの小屋だ。クルクルは、丸太の芯をくり抜いて洞にしたもの。木槌で叩き、叩く音を使い分けて、村人に集合を呼びかけたり儀式のはじまりを伝える。時には、警報の役割をする。
 「アナタ、ニホンジンですか?」
 背中に、アクセントの怪しい日本語の声がかかった。
 振り返ると、恰幅のよいおじさんがすぐうしろに立っていた。
 わたしは、日本人であることを告げた。
 「ワタシの名前は、デウォ・グデ・ライ・ムシンです。ワヤン・クリッのダランです」
 ワタシというよりは、この渋い雰囲気ならにワシといったほうが似合いそうだ。それにしても旨い日本語だ。
 ワヤン・クリッは、ジャワやバリの伝統芸能で影絵芝居のことだ。水牛の皮を透かし彫りして彩色した人形を白布の裏で操り、背後から椰子油ランプで照らす。ダランとは、その人形遣いのこと。独りで数多くの人形を操り、人形ごとに声音を使い分け物語りを語る。
 「ワタシは、たくさんのニホンジンにワヤン・クリッを教えました」
 どうりで日本語が旨いはずだ。
 おじさんは数人の日本人の名前をあげて「知ってるか?」と訊いてきた。ワヤン・クリッにまったく疎いわたしには知らない名前ばかりだった。といって詳しいものがあるわけでもないが。
 感心してうなずいていると「習いたければ、ワタシのところへ訪ねてくるがいい」そう言い残して、奥の境内へ続く階段を上がっていった。
 ウブドに戻って、モンキー・フォレスト通りにあるカセット・ショップのバリ伝統音楽コーナーを覗くと、クヘン寺院で会ったおじさんの顔写真のついたワヤン・クリッのカセット・テープが何本も売られていた。おじさんは、有名なダランだったのだ。
 有名人だからといってと特別に振る舞うのもおかしなことだが。バリでは、こんなふうに一見なんでもない人が有名な芸術家だったりする。
 クヘン寺院を南に100メートルほど歩くと、T字路に出た。
 T字路の向こうの木立の隙間から、赤、黄、白色ののぼりが幾本も見えた。こののぼりはオダランの時に用意されるものだ。正装の人々や、グボガンと呼ばれる供物を頭にのせた女性たちが行き交っている。美しいガボガンを頭にのせ背筋をピンと伸ばして歩くバリ人女性の姿は、バリ舞踊を連想させるほど優美だ。
 グボガンは、バナナの木の幹を芯にして竹串でさまざまな果物を差しこみ、ゆるやかな円錐形に積みあげてゆく。米粉から作ったお菓子、花々や椰子の若葉でこさえた飾りが添えられ、彩りも鮮やかで芸術的でもある。高さ1メートルを越える、重さ20キロはあると思われる大きなものもある。
 神々へ感謝の気持ちをこめて捧げられ、寺院内の建物や準備された縁台に安置し僧侶に聖水をかけてもらう。お祈りが終わると家に持ち帰り、神々のおさがりをいただくのだ。
 滞在初日にして、オダランに遭遇するとはついている。わたしは確認のために寺院まで行ってみることにした。寺院はやはりオダランだった。
 寺院前の広場には、ビニール・シートで囲われた仮設のワルン(簡易食堂)が一軒店を出していた。わたしはワルンの幅20センチ、長さ2メートルほどの薄い板に細い四本脚のついた粗末なベンチに腰をかけた。眼の前は、果物やお菓子が満載されたテーブルだ。
 テーブル越しに、おばさんと娘が手もとに眼を注いで、なにやら作っている。
 わたしは娘に「コピ・サトゥ」と注文した。
 珈琲は、インドネシア語ではコピだ。
 バリのコピは、煎って潰したパウダー状のもの。インスタント・コーヒーのように熱い湯で溶かし、パウダーが沈殿するのをしばらくまってから口にする。自家製のコピには、カスが混じっていることもあり口の中がざらっとし、違和感があったりする。慣れてくれば、それも気にならなくなる。大きな異物は舌の先で起用に取り出し、ペッと吐き出しておしまいだ。もちろん、上品に指先で摘み出してもよい。沈殿したパウダーを、飲まないためにはコピを少し残すのがこつだ。
 バリの家庭を訪れると、必ずコピか紅茶が出てくる。
 「飲んできました」
 丁重に断ったとしても、訪れた客をもてなして帰すことが義務づけられているかのように、いつのまにか、蓋のついたグラスがかたわらに置かれている。もてなされた方としては、口をつけなければ失礼にあたる。ところがこれが、はじめから砂糖がたっぷり入っていてやたら甘い。甘いコピを飲まないわたしには、拷問のようなもてなしだ。
 ワルンやレストランでも「苦いコピ」とか「砂糖抜き」としっかり断らないと、必ず、砂糖の入ったコピや紅茶が出てきてしまう。砂糖を入れる理由は、グラスが割れるのを防ぐためだ(バリでは熱いコピも紅茶も、厚手のガラス・コップで出てくる)とか、貴重な砂糖でお客様をもてなすのが誠意につながるからだ、とか事情通は言うが、わたしは、単にバリ人が甘いのが好きなだけだと思う。

 「砂糖を入れないで」と頼むのを言い忘れ、甘いコピを飲むはめになった。
 娘がテーブルをまわりこんで、わたしの隣に腰かけ「ここはダラム寺院だ」と教えてくれた。
 わたしは少し緊張気味に姿勢を正した。
 甘いコピをすすりながら、ワルンの娘と雑談する。バリ人の女性と、こんなに近くで話すのははじめての経験だ。
 「日本人か?」
 「結婚しているのか?」
 「バリ人の恋人はいるのか?」
 「バリ人の恋人は欲しいか?」
 娘は矢継ぎ早に質問してきた。
 長期滞在をはじめて五年だというのに、わたしの語学力は相変わらず貧弱で、娘との会話も途切れ途切れになってしまう。それでも
 「今夜、わたしの家に遊びにきてね」
 なんて、恋の芽生えそうな展開になってきた。
 返事に困っているわたしに追い打ちをかけるように、今度は身体を少しもたれ気味にして
 「欲しいか、わたしを?」
 これには驚いた。女性からこんな積極的にされたことがないわたしはおろおろと焦り、バリ娘との結婚もいいかななんて考えもよぎった。
 そんなふたりの会話を、娘のおかあさんがにっこり笑って聞いている。
 「コンニチワ!」
 妙なアクセントの日本語が、ベンチの向こうから聞こえてきた。
 ここでもまた日本語か、と少しがっかりしたが、同時に娘の誘惑から逃れられる助け船のような、ありがたい神の声でもあった。
 声の主を探すと、正装姿に長髪をうしろで縛り、若者には珍しくシリーを噛んだ赤い口をした青年が、もうひとつのベンチに腰掛けてこちらを見ていた。眼が合うと、おどけた調子の日本語で  「ワタシの名前はサン・プトゥです。今夜チャロナラン劇あるよ。面白いよ。ワタシ踊るから観にきて」
 屈託なく話かけてきた。
 このひょうきんなキャラクターから想像すると、役柄は道化かお笑い系だろう。
 青年が、ワルンの娘をからかった。冗談を言ったのか、娘は大きな声で笑い出した。
 のんびりとした、昼下がりのワルン。気どりのいらない空間に、しばらく身をひたす。
 コピ代を払って、立ちあがろうとすると
 「もっとゆっくりしていって」
 娘に腕をつかまれた。その力の強さによろけてしまった。大柄で太り気味の容姿と同様、豪快な娘だ。わたしはどちらかというと、小柄でやせ型の女性が好みだ。
 わたしは逃げるように、ワルンに背を向けた。その背中に娘の大きな声が聞こえた。
 「チャロナラン劇が終わったら、また寄ってね」

 内を旅する時には、必ず、バリの宗教儀礼に参加するための正装セットを持って出かける。いつどこで、オダランに遭遇するかわからないからだ。その正装セットが、今日も役だった。
 ロスメンの狭いマンディ場で水浴びをすませ、正装に着替えると、さっそくダラム寺院に出かけた。
 寺院前の大きなワンティランに、ガムランが用意されている。幕が張られているところをみると、今夜のチャロナラン劇はここで上演されるのだろう。
 時間は八時を過ぎているが、観客がまばらだ。チャロナラン劇がはじまるには、まだ時間があるようだ。
 しばらくの間、寺院を見学することにした。ウブド近辺のオダランだと、誰かしら顔見知りがいて声をかけられるが、遠くバンリでは声をかけられる心配がない。観光気分で見学できる。
 寺院を出ると、いつのまにか大勢の人が集まっていた。さきほどまでまばらだったワンティランには、いっぱいの人が坐っている。ワンティランに入りきれない村人は、まとまりもなく建物前の芝生に腰を下ろし、彼らはいちおうに、果物やお菓子をほうばり談笑している。まるで、ピクニックにでも来ているようだ。
 彼らに混じって、わたしも芝生に腰を下ろした。
 わたしのすぐうしろは、土がこんもりと盛りあがった仮埋葬の墓だ。真新しい供花が飾られている。わたしは、少し薄気味悪くなり腰が落ち着かない。こんな場所でもバリ人は、ピクニック気分でいられるのだ。
 チャロナラン劇は、バリの暦で霊力の強いといわれる日に死者の霊を祀るダラム寺院で上演されることが多い。月が隠れるティルム(暗月)の晩のチャロナラン劇は、いやがうえにも妖気が漂う。
バンリのチャロナラン劇は聖獣バロンの踊りもなく、いきなりはじまった。ウブドで観られるような、華やかな踊りもなく出演者も少ない。全体的に質素なものだ。これが本来の、村の芸能なのかもしれない。
 副将軍役の踊り手が、幕を勢いよく割って登場した。
 物語が大詰めに入ったのだ。
 踊り手は、どこかで見た顔だ。・・・まさか。そうだ、昼間のワルンでわたしに声をかけてきた、あのひょうきんな青年サン・プトゥに間違いない。ワルンの娘をからかっていた時の、くだけたイメージとうって変わって堂々とした演技だ。それもなんと、重要な役どころでの登場だ。
 絞り出すようなドスのきいた野太い声も、役柄にぴったりだ。この声で、彼がシリーを噛んでいた理由がわかった。ワヤン・クリッのダランや舞踊劇の男性役者が、声を良くするためにシリーを噛むと聞いている。彼もそんな理由から、噛んでいるのだろう。シリ−には、覚醒作用もあり、長時間演じるワヤン・クリッのダランは、演じる前に噛む。
 ひょうきん青年の演じる副将軍が、割れ門を指射して大声を張りあげた。
 それが合図だったかのように、わたしの隣でお菓子をほうばり友人と雑談していた若者が咆哮をあげた。若者は、バネ仕掛けの人形のように立ちあがると弾けるように飛び出した。同時に、あちらからもこちらからも叫び声があがっている。男性たちが、叫びながら割れ門に向かって突進して行った。
 わたしは、彼らが気が触れてしまったのではないかと心配で気が気でない。村人たちは傍観しているだけで手助けしない。わたしは、なんとかしなくてはいけないのでは思うのだが、結局、ただ何も出来ずに呆気にとられて見ているだけだ。
 割れ門から魔女ランダが現れ、寺院に入ろうとする彼らに立ちはだかった。
 魔女ランダは両手を高々とかかげ、右手には命を奪う武器になる白い布をかざし獣のような声をあげている。全身を包むこんでしまう長い髪を振り乱し、飛び跳ねる。
 魔女ランダに追従するように、割れ門から数人の男たちが飛び出してきた。彼らもまたトランスしていた。
 トランスした男たちは、これで10数人になっている。彼らは割れ門の前で、魔女ランダを取り巻き踊りはじめた。ある者はランダのように踊り、ある者は人を指射しながらなにやらしゃべり続けている。ある者は車のステアリングをまわすような格好で動きまわり、ある者は何者かに立ち向かうかのように挑戦的な態度だ。時折、突発的に走り出し、村人に押さえられる。
 バリでは、トランス状態のことをクラウハンと言う。神が降りてくるという意味だ。神と話し、神と合体し、神として行動する。この人々も、神が憑依してしまったのだろうか。これも儀式の一環だという。
 わたしの前を、怪物のような唸り声と地響きを残してランダが通った。強い霊的なランダのパワーを畏れ、わたしは直視するのを避けて眼を伏せた。ランダは、広場の外れに向かって走っていった。村人につられて、わたしも立ちあがり走り出した。
 ランダは、ブリンギンの下にある祠の前で、手にした白い布を高々と振りかざし雄叫びをあげた。叫び声は、緑深い森にこだました。村人は、その場にしゃがみ込んでランダの叫びに聞き入っている。神が降臨したランダは、次のオダランまでの一年間、村人の行いを導くお告げをする。
 ランダが寺院に戻って行った。
 今夜の奉納芸能と儀礼の終わりだ。
 腕時計は、深夜1時をさしていた。
 興奮冷めやらないわたしは、熱気を冷ますため寺院に入った。
 サン・プトゥが、中央の祭壇でお祈りする姿が見えた。踊りが滞りなく終わったことを神に告げているのであろう。厳粛にお祈りをする彼の神々しいうしろ姿に、わたしは思わず魅入ってしまう。お祈りを終えて振り返った彼は、わたしを見つけ近寄ってきた。
 「踊り、素晴らしかった」
 わたしは、素直な感想を述べた。
 「ダメデス。ヘタデス」
 彼はもう、昼間のひょうきんな青年に戻っていた。
 再会を誓ってサン・プトゥと別れた。寺院を出ると、わたしはワルンの方向に歩きはじめた。何を期待しているのか自分でもわからないが、ワルンに寄ってみようと思った。
 ワルンは電気が消えている。ベンチは片づけられて、四方にテントが張られていた。
 「家においで」
 どうせ店の人とお客との他愛ない会話。その場の冗談なんだ。テントの中で母娘の楽しげな話声が小さく聞こえた。声をかけずに、ロスメンに戻ることにした。
 「ミンピー・マニス(甘い夢を見てください)」
 わたしはテントに向かって、覚え立てのインドネシア語をつぶやいた。

 翌日、わたしのロスメンにワヤンが訪ねてきた。
 彼は昨夜、境内を歩いているわたしに日本語で話かけてきた。独学で日本語を勉強していると言っていた。日本人と生きた日本語を話したいと思っているが、それでなくても訪れる旅行者の少ないバンリ市で、日本人にいたっては年間にしても数えるほどしかいない。まったく話す機会がないと言う。そんなことから、わたしに声をかけてきた。
 「もっと日本語が話したいので訪ねました。よかったら、バンリの街を案内しましょう」
 この言葉に、これは新手のガイドか、それともガイドの押し売りかと疑った。たとえガイドだとしても、彼には許せるだけの好感が持てたわたしは、素直にその言葉に従った。
 バンリの街、遺跡のある村、伝統を残す村、湖や田畑の美しい景色など、近郊の見所をくまなく案内してくれた。彼はやはり、日本語が話したかっただけだった。そして、自慢の故郷バンリを紹介したかったのだ。
 数日間行動を共にしただけだが、それだけでも彼の誠実さが充分に理解できた。
 「もし、ウブドで働きたければ紹介できるところがあるから、その時は、わたしの作業場に訪ねて来るといい」
 わたしは連絡先を書いたメモをワヤンに手渡し、バンリ市の旅を終えた。
 こんないきさつからワヤンは、通称ワヤン・バンリと呼ばれてウブドのツーリスト・インフォメーションで働くことになった。
 そして半年後、ワヤン・バンリは
 「この仕事は、わたしには向いていません」
 そう言って止めていった。
 今は、バンリ市の役所に勤めて植樹の仕事をしている。多くの人と向き合う仕事より、自然と触れ合う仕事のほうが彼には向いているようだ。
 今回の奉納舞踊は、こんなふうに知り合い、今でも交流のあるワヤン・バンリからの誘いだ。

                   ※

 トペンと冠の入った籠を後部座席に積み、コンピアンが助手席に乗り込んだところで、わたしは車をスタートさせた。今回はバンリへ遠征ということレンタカーを借りた。
 40分ほどで、車はバンリ市街に入った。
 ワヤン・バンリの家は、大通りからバイクが1台通るにやっとの路地を入り袋小路になったところにある。似た路地がいくつもあり、2度も通り越してしまった。一方通行のために中心街を2周して、やっと見つけた。
 大通りに車を止め、コンピアンとわたしは路地を入った。
 門をくぐり中庭にはいると、ワヤン・バンリの笑顔が見えた。彼の笑顔は人を落ち着かせる。お父さんにお母さん、弟のヌガーの顔も暖かく迎えてくれた。
 テラスに案内され、さっそく、もてなしのコピが出た。コピには砂糖が入っていないかった。わたしが甘いコピを飲まないのを、ワヤン・バンリは知っているのだ。
 風にのってガムランの煌びやかな音が運ばれてくる。いつ聴いてもウキウキさせられる音だ。ガムランだけは、毎日聴いても飽きることがない。
 会話の途切れを見つけて、わたしは「あの音はどこから聴こえてくるのか」と居合わせた家族に問うように聞いた。
 「今夜、イトサンたちが踊る寺院ですよ」と、ワヤン・バンリのお父さんが当主として代表するかのように答えてくれた。
 耳を澄まして聴くと、ウブド周辺で聴くガムランの音色と違う。
 「ガムランの種類は、何ですか?」と今度はワヤン・バンリに訊ねた。
 ワヤン・バンリは、我が村のガムランを自慢するかのように
 「ゴン・グデですよ」意気揚々として答えた。
 ゴン・グデは、バンリ県やクルンクン県の山間部にしか残っていない、今では、あまり聴く機会のないガムランだ。グデとは、バリ語で大きいという意味で鍵盤の大きな楽器のことだ。
 われわれが日頃耳にする演奏は、ゴン・クビヤールと呼ばれる楽器形態だ。音域の幅も広く、素早い旋律の演奏が可能な楽器編成として、1915年に北部バリで創作された。そのスピード感がバリ人気質にマッチしたのか、またたくまに島中に広まっていった。この頃から鑑賞用の踊りがいくつも創作され、現在のガムラン音楽の主流になっている。
 わたしがはじめてゴン・グデを聴いたのは、バトゥール山の外輪山に建つウルン・ダヌ寺院のオダランだった。晴れていればバトゥール山が手に届くところで、美しく雄姿を見せてくれたことだろう。その時は、バリ・ヒンドゥー教の総本山といわれるブサキ寺院と匹敵するほど広い境内に、錦紗に似たベールのような薄い霧が立ち込めていた。
 ゴン・グデの叩き出す重厚な音が、湿気を含んだ空気を震わせ霧の境内に響き渡った。ゆっくりと流れる厳粛な音とその時の幻想的な情景に、身震いしたのを思い出す。
 「それでは、そろそろ寺院に行きましょうか」
 ワヤン・バンリにうながされて、コンピアンとわたしは腰を上げた。
 車から籠と衣裳バッグをおろすと、われわれはゴン・グデの音色に引き寄せられるように、音源の方角に向かって歩き出した。
 大通りをしばらく歩くと通りに面して、寺院はあった。
 境内に入ると、右手にある1段と高い建物に黒を基調に黄金色が施された煌びやかなガムランが鎮座していた。ウルン・ダヌ寺院で経験した身震いするほどの感動はないが、ゴン・グデの響きが、優しくわたしの身体を包み込んだ。
 ワヤン・バンリはゴン・グデの前を通り過ぎて、われわれを奥の建物には案内した。村人が素早くゴザを用意し、われわれに坐るように促した。籠と衣裳バッグをゴザの上に置き、われわれはコンクリートの床に腰をおろした。
 さっそく、もてなしのコピと餅菓子が運ばれてきた。餅菓子には、椰子の果汁から作った黒砂糖のシロップがたっぷりかかって、口の中が溶けそうに甘い。甘さを中和させようとすすったコピが、また甘い。沈静していた虫歯が疼き出しそうだ。

コピ

 われわれが案内された建物の奥は台所だ。数人の男性が忙しそうにしている姿が見える。儀式での料理は男性の仕事。女性はなにをしているかというと、供物作りの合間をぬってコピやテなどの飲み物を作っている。料理や飲み物は、手伝いの人や来客に振るまう。
 しばらくすると、裂いた竹で編んだ浅い皿がいくつも運ばれ、われわれの前に並べられた。皿には、ほかほかの炊きたて白飯に、バビ・グリン(豚の丸焼き)のぱりっと飴色に焼けた皮とほぐした肉、腸詰めにバリ風サテ(ミンチの串焼き)、そして、肉や野菜を細かく刻んで香辛料であえた祭りにはつきものラワールが、まわりに盛りつけてあった。これが、バリ独特のナシ・チャンプールと呼ばれるものだ。
 全員の前に食事が並ぶと、世話役のような人物が現れて「どうぞ食べてください」と食事をすすめた。
 わたしはみんなのすすめに従って、1番はじめに洗面器に入った水で右手をすすぎ、香辛料ののった皿に手を伸ばした。バリの自然塩があったからだ。わたしは、白飯に自然塩を少しまぶし、おかずと一緒に右手の指先で混ぜた。
 1口分を摘み口に運び、親指で押し出すようにして口に入れた。それぞれの料理の持つ辛さ甘さが絡み合って、ご機嫌な味だ。美味しいから、お腹いっぱいに食べたくなってしまうが、踊る前の食べ過ぎは禁物だ。わたしは、おかわりしたい欲望を理性で我慢した。
 バリでは、もてなしを受ける側にルールがある。
 まず、家の人に「どうぞ」とすすめられるか、その席の主賓か中心人物が手をつけるまではおあずけだ。そして、ごちそうになる時には、まわりにいる人に「お茶はすみましたか?」「食事は、すみましたか?」と訊ねておいて、それから「お先に、いただきます」と声をかけるか、手振りでそれとわかるようにしてから食事をとるのだ。極端な話、バリ人はワルンなどで隣り合わせた見知らぬ人にも「お先に、いただきます」と声をかける。食事がすみ、席を立つ時にも、やはり、主賓や中心人物が立ってからの方がよい。
 逆に、もてなしをする時には「どうぞ、めしあがれ」と声をかけることを忘れないように。バリ人はすすめられない限り、決して手をつけないのだ。
 食事が終わると、ワヤン・バンリの弟ヌガーが
 「そろそろ踊りの準備をしてください」と、伝えにきた。
 衣裳替えも食事をしたと同じ場所だ。
 お祈りのために境内に坐りこんだ大勢の村人の視線を浴びながらの着替えだ。日本人が踊るのが珍しいのか、痛いほどの熱い視線がわたしに送られてくる。気のせいだとは思うが、特に若い女性からの視線が熱い。照れながらも、張り切ってしまうわたしであった。

                   ※

 今夜の演目は、アルジョ舞踊劇(注:7写真:舞踊)だ。
 バンリ地方は子供のグループがあるほど、アルジョ舞踊劇が盛んだ。今夜は、その子供たちによって演じられる。コンピアンとわたしは、その前座で踊ることになった。わたしは、体力に自信がないのにかかわらず、はじめてトペンをふたつ踊るという、無謀な試みをするつもりでいる。
 食事の時、休憩していたゴン・グデの重厚な音が、再び響いた。
 コンピアンは、先ほどからトペンと冠に、線香を捧げてお祈りをしている。これから踊るわれわれに、神の導きと力を授かれるようにと祈っているのだ。こんな大事なことも、わたし独りで来ていたらできなかった。
 お祈りが終わると、われわれはトペンと冠の入った籠を持って舞台のある境内へと移動した。すでに大勢の村人がガムランのある建物の前で、舞台のための空間を残して坐り込んでいる。
 幕のうしろにまわると、そこにも村人がいっぱい立っていた。踊り手のための控えの場も坐るところも用意されていない。われわれは、ガムランのある建物の隅に小さなスペースを見つけて籠を置いた。
 今回の奉納舞踊は、わたしにとってはじめてのウブドを離れての遠征だ。それに、ゴン・グデの演奏で踊るのもはじめてだ。そんなことからか、必要以上に緊張している。
 トップ・バッターは、わたしのトペン・パテだ。
 かつらをかぶり、トペンをつける。トペンの視界は、描かれた眼の下方にある弓状の細い切り口からだ。これはほとんど、節穴から覗いているようなものだ。
 トペンを少し下にずらし冠をかぶる。冠に少しトペンがかかるようにもとに戻すとトペンが少し浮き、トペンと顔の間に隙間ができる。これで、さらに視界は見にくくなる。
 トペンのゴムひもを利用して、花飾りを両耳の上に差す。バランスよくついているか、鏡を見て確かめ、冠がずれないようにしっかりとかぶり直して準備完了だ。仕上げに地面に素足を慣らすため、しこを踏んでウォーミングアップをした。
 わたしは、幕に向かって歩きはじめた。視界が悪いので、そろりそろりと人垣を分けるようにして前に進む。時折、背中に差したクリス(剣)が村人にあたる。幕の裏にたどり着いた。椅子が用意されていないので、立った姿勢で幕を開けることになる。
 幕の中央を右手でつかみ、心を落ち着かせるために深い深呼吸を3度した。
 つかんだ右手を軽く揺すり、スタンバイの合図をガムランに送った。合図に気づき、ゴン・グデがトペンの曲を奏ではじめた。
 幕の裏で正面を見据え、幕を両手でつかんだ。さあ、幕開けだ。
 少しづつ少しづつ、そしてゆっくりゆっくり幕を左右に開けていく。
 両手がいっぱいに広がったところで、幕は開け終わりだ。
 左方に視線を移し、つづいて中央に視線を、そして右方にと、敵を威嚇するかのように踊っていく。

トペン

 ゴン・グデとのタイミングはピッタリだ。
 身体が無意識に動き、踊っている。ゴン・グデの心地よい音の振動に、身も心も包まれていく。朦朧としてくる。ゴン・グデに強姦されているようだ。
 ・・・はっ、とわれに変える。
 ほんの数秒だと思うが、踊るのを忘れてゴン・グデの音に聴き入ってしまったようだ。さいわい観衆は気づいていない。
 ゴン・グデに助けられて、今夜は実力以上の踊りができた。
 つづいて、コンピアンのトペン・トゥア(写真)が奉納される。
 トペン・トゥアは、王様の側近で老年の気品あるキャラクター。演奏はゆっくりとしたマニスの部類に入る。
 コンピアンが踊っている間、わたしはしばらく休憩できる。しかし、ほっとしてはいられない。次はわたしが、トペン・ムニエールを踊る番だ。
 トペンをつけると息苦しくなる。なるべく踊る間際につけたい。準備するタイミングがわからなくて、わたしはろくに休憩もせず早々とトペンをつけてしまった。

トペン・トゥア
トペン・トゥアトペン・トゥア

 コンピアンが踊り終えて戻ってきた。
 トペンをつけているわたしを見て「慌てなくてもいいよ」と声をかけてきた。間があいても、踊り手の状態が整った時に踊ればよいのだと教えられた。前の踊りが終わったら、すみやかに次が出なくてはと思ってしまう、日本人の実直さをわたしはまだ持っているようだ。
 いよいよ初の試みである、2つ目の踊りの奉納だ。
 体力的に心もとないが、踊りは少ないレパートリーの中でもっとも自信のあるトペン・ムニエール。まあ、大丈夫だろう。
 トペン・パテの時は、視界が狭くてめまいがしそうになったが、トペン・ムニエールは、眼の部分がくり抜かれていて自前の眼で見える。めまいはしないし、観衆の反応がよく見える。その変わりに、眼の演技が必要とされる。
 右の幕を押しあげて、左側の観衆だけを覗きこむ。左側の観衆が、ユニークなトペンを見て大笑いする。正面と右側の観衆には、その笑いの意味がわからない。ムニエールは観衆の独りと眼が合うと、恥ずかしそうに眼を伏せて幕を閉める。
 次に、左側の幕を押しあげて、右側の観衆を覗きこむ。右側の観衆が沸く。幕は再び閉じられる。右側と左側の観衆が、笑いの連帯感でざわめいている。正面の観衆だけが、笑いの意味が分からず取り残されている。
 ざわめきがおさまると、ムニエールは、素早く幕から顔だけを出した。
 正面の観衆がやっと笑いの正体を知り、観衆全体に笑いの渦が広まった。
 これまでのところは、大成功だ。
 恥ずかしがり屋のムニエールは、少し女性ぽい仕草で幕から出ていく。
 観衆の反応が、早くて素直だ。
 村人は、日本人が踊っていることを知っている。技術はともかくとして、バリの芸能が好きで踊っているのだと好意的に見てくれたようだ。
 今回のバンリ遠征舞踊は、ワヤン・バンリと弟のヌガー、そしてコンピアンのお陰で無事奉納することができた。お祈りの仕方、食事のとり方、坐る時の優先順位など、ほとんどウブドと変わらなく、習慣が違ったらどうしようという不安も無用だった。ゴン・グデの演奏で踊ることができたのも、楽しい経験だった。
 アルジョ舞踊劇が、はじまったようだ。
 コンピアンとわたしは、着替えをすますと村人に混じって境内に坐りこんだ。

(注:7)アルジョ(Arja)舞踊劇
 アルジョは、バリ王国時代のババットと呼ばれる悲しい恋物語を、歌劇仕立てで演じる。ガンブをより簡略化して大衆的にした舞踊劇。もともとは、男性によって演じられていたが、現在では女性が演じることが多い。
 幕の内側でしばらく謡ってから、幕を出ていく。踊り手が物語と歌詞と曲を自分で創作して演ずる場合が多く、題材の幅は広い。
 寺院祭礼では、夜遅く始まり明け方まで演じられる。




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